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新田神社

■所在地 :大田区矢口1−21−23 新田神社
■交  通 :東急多摩川線 武蔵新田駅より徒歩5分





             ↑「御塚
 社殿後部の御塚は、御祭神新田義興公の御遺体を埋葬した所で、直径約十五メートルお円墳である。この中に入ると必ず祟りがあるというところから「荒山」「迷い塚」などともいう。
 またこの御塚後部には昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、江戸時代に平賀源内がこの篠竹で、厄除開運・邪気退散の破魔矢「矢守」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。
 爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与している。
  
          ↑うなる狛犬
 謀略を企てた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社付近に来ると、きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。
 しかし残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。

    新田大明神

  「由緒
 当神社の御祭神である『新田義興公』は、稲村ヶ崎にて名剣を投じて鎌倉に攻め入り「建武中興」を成し遂げられました新田義貞公の第二子で幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より『義貞の家を興すべき人なり』として『義興』という名を賜り、「従五位左兵衛佐」に任ぜられました。ところが足利尊氏が謀叛を起こし、父義貞公亡き後、義興公はよくその意志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の恢復に尽力をされました。そして、武蔵野合戦等を始め各地に奮戦され、終始一貫その忠義を尽くされましたが、正平十三年(1358年)十月十日、足利基氏の執事である畠山国清、江戸遠江守らの卑怯なる謀略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げられました。
 その後、義興公の怨霊が現れ悪計加担の者どもに祟りを及ぼしたり、夜々「光り物(火の玉)」が矢口付近に現れて往来の人々をも悩ますようになりました。そこで義興公の御霊を鎮める為に、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ、『新田大明神』として広く奉られました。これが『新田神社』の起こりであります。  


    
                 ↑御神木
 この樹齢七百年に及ぶ欅は過去に落雷や戦災によって、幹が大きく裂けているが、毎年新緑の季節には青々とした葉を繁らせる。また古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物)」が寄生しており、早春、淡黄色の小花が咲く。
 このために、この御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の霊験があるという古老の言い伝えがある。この御神木の御加護をいただくには、左側の鳥居より中に入り、できるだけ長く御神木に触れて霊気を感じ取って下さい。なお、鳥居への出入りの祭には御一礼下さい。

    
                 ↑「力石
 力石(約180〜240kg)は、昔、若者たちが力くらべに用いたものである。現代とは違い、娯楽が少なかった時代には祭りの日、若者たちが大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名などを刻んで奉納した。
 力くらべの行事は、娯楽の面だけではなく、力石の多くが神社の境内にあることからも、本来は神事儀礼であり、また、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼の一つであった。

   ←新田神君之碑(大田区指定文化財)

          ↑「新田大明神道標
 これは現在の第二京浜国道沿いに建てられていたもので、文化十四年(1817年)四月に麻布日下窪講中によってされた新田大明神への道しるべである。
※出典〔新田神社配布の栞・設置解説板より〕
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