馬込半白筋成胡瓜・馬込大太三寸人参発祥の地

■所在地 :大田区西馬込2−20−1
■交  通 :都営地下鉄浅草線 西馬込駅下車 徒歩、1分





    馬込半白筋成胡瓜・馬込大太三寸人参発祥の地

 馬込半白節成胡瓜の由緒
 馬込村では、昔から大井節成が多く栽培されていたが、明治33年ごろに白い部分の多い、独特の性質をもった馬込半白がつくられた、市場価値も高く、馬込の特産品となった。
 馬込半白は、 『つる』の10節位から続いて雌花のつく節成種で、つるの伸びの柱栽培を開発し確立した。
 大正9年ごろ『大農園』という採種組合が篤農家、河原梅次郎氏を中心に数軒の農家でつくられ、その後、昭和8年には『馬込半白採種組合』が高瀬三次郎氏を代表として設立され、品種の保存と均一化に努めた。
 馬込で採種した馬込半白を温暖地の近県をはじめ四国、九州まで栽培指導した河原梅次郎氏の功績は大きい。
 馬込半白が、この地で栽培されたのは昭和38年ごろまでである。


 馬込大太三寸人参の由緒
 古来、馬込の周辺では、砂村三寸と川崎三寸(西洋種)が栽培されていたが西馬込の篤農家河原清吉氏らにより、砂村三寸と川崎三寸を交配して、それぞれの長所を受け継いだ、大型で形・色のよい人参に改良され固定された。
 昭和25年、大森東部農協(組合長 高橋正夫氏)が『馬込大太三寸人参』の名称で農林省に種苗登録し以後、馬込の特産品となった。
 農協では農家が採種した種子を買い上げ、宮内庁の三里塚牧場をはじめ、全国に販売した。 また、この時期を境に人参栽培は急速に普及した。
 馬込で人参栽培が盛んであったのは、昭和38年ごろまでで、農地の宅地化とともに徐々に減少した。

                大田区のご好意により建立
                平成8年3月吉日 JA東京大森
  
                             ※出典〔碑文より〕
←馬込半白節成胡瓜
※写真〔大田区立郷土博物館 馬込半白節成胡瓜の解説板より〕
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