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梅屋敷と和中散売薬所

■所在地 :大田区蒲田3−25−6付近
■交  通 :京急本線 京急蒲田駅又は梅屋敷駅より徒歩7分 


 〈大田区指定 史跡〉  昭和50年3月19日指定
    梅屋敷と和中散売薬所

 「和中散」は、食あたり、暑気あたり等と効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて、(1688〜1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
 このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。文正年間(1818〜1830)の始め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
 亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも、描かれた。 

          ※出典〔大田区教育委員会設置の標識板より〕


      

 梅屋敷の由来 
 梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地内に、その子久三郎が文政の頃(1818〜1829)に、梅の木数百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。
 当時は、後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。
                                                 ※出典〔大田区土木部設置の標識板より〕


 このように繁昌した庭園も、大正七年(1918)現在の第一京浜国道の拡幅のため東側を、また、おなじころ現在の京浜急行の電車が、園の西側を通ることになり園地が縮小された。
 加えて太平洋戦争と、その後の混乱した世相にわざわいされて廃墟し、園内の各所に立てられていた石碑も、二、三を残して散逸してしまった。
 昭和十三年(1938)当時の東京市へ寄付され、現在は大田区が公園管理をしています。
  



明治天皇行幸記念碑
 明治天皇は、この庭園をたいそう気に入り、九回も行幸されているようです。

狂歌堂真顔の歌碑(復元)
 昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。文面は、
    旅人の神に手向の幣代や
        白絹咲きし庭中の梅
              狂歌堂真顔
                  であったと伝えられています。

                 ※出典〔大田区設置の標識板より〕
山本久蔵の句碑
 この句碑は、天保五年(1834)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建設立したものです。文面は、
    神酒ささぐ間に鶯の初音かな
             麦住亭梅久
                      とあります。
 戦前には、他に江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。

                 ※出典〔大田区設置の標識板より〕
里程票(復元)
 昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは1メートルほどでその表面には、距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋と刻されていたと伝えれています。木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが、資料をもとに復元しました。

             ※出典〔大田区土木部設置の標識板より〕
    
   ←↑2008/2/23撮影

            ↑2010/5/9撮影
    
              ↑2010/5/9撮影
 ※現在、梅屋敷公園は隣接する京浜急行線の立体工事に伴い、公園の一部は工事のため閉鎖されていますので、
現在、園内の梅のは30本ほどです。 2008/2/23現在
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