芳心院墓所(俗称万両塚) |
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■所在地 :大田区池上1−19−10 永寿院 | |
■交 通 :東急池上線 池上駅より徒歩15分 都営浅草線 西馬込駅より徒歩15分 | |
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〈大田区指定 史跡〉 昭和50年3月19日指定 芳心院の墓(俗称万両塚) 芳心院〔宝永五年(1708)没〕は、紀州徳川頼宣の娘(養珠院お万の方の孫)で、鳥取藩主池田相模守光伸の室である。 この墓所は約六〇〇平方メートルの墓域を有し、周囲に二重の堀溝が構築されている。当時その建設費が一万両に及んだといわれ、俗に「万両塚」と呼ばれている。 宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てたお墓であったことが記されています。 2003年秋から万両塚の調査、改修工事が行われ、宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。 また、堀溝は芳心院が生前蛇嫌いであったために、没後も蛇を遠ざける目的で常時水が湛えられていたと伝えられていましたが、今回の調査で堀溝に水が湛えられていた形跡はなく空堀であったことがわかりました。 |
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住居跡位置図の拡大 |
弥生時代集落の跡 万両塚調査の過程で、約二千年前の弥生時代の住居跡が十棟以上発見されました。 それらは時間的なズレがあり、かなり長い期間この地に集落が存在していたことがわかります。 その中の一棟、江戸時代に万両塚を築くときに半分壊れた住居跡を、歴史が重層する貴重な遺跡として現位置に再生保存をしました。 また住居跡からは完全な形に近い土器が数多く発掘されました。発掘された土器は弥生時代後期のもので、櫛描文や縄文が描かれています。土器の表面に焼け焦げたあとがあるものもあり、火災にあったためだと考えられます。 池上の古代の記憶が、足元からよみがえりました。 |
↑ 復元保存された集落跡 |
↑発掘された土器(弥生時代後期) ※出典〔現地設置標識板より〕 |
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