鈴木新田跡

■所在地 :大田区羽田空港1・2丁目一帯
■交  通 :京浜急行空港線・京浜急行バス・東京モノレール 羽田空港行き





 〈大田区指定 史跡〉
    鈴木新田跡

 今からおよそ200年ほど前、この鈴木新田は、従来要島と呼ばれていた出洲中の低湿地を開発したもので、すでに天明四年(1784)十一月の調べでは、干潟三町五畝拾四歩として、羽田村の一部に挙げられていた。これを天明年間(1781〜1789)に、猟師町の名主、鈴木弥五右衛門が、羽田村名主石井四朗右衛門に折衝して譲り受け、羽田猟師町請負新田として、幕府に願い出て開墾の許可を得て開発。文化十二年(1815)に至り、ようやく新田としての形態が整ったらしく、出百姓層もこの地に住みついて、新たに鈴木新田として羽田猟師町から独立し、いわゆる羽田三ヶ村を構成することになり、名主は鈴木弥五右衛門が兼務した。
 鈴木弥五右衛門は、この事業の成功により、猟師町を嗣子に譲り、文政二年(1819)の頃には、今の穴守神社を勧請して、さらに新田内に壮大な屋敷を構え、その後事を養子常三郎に託して、悠々自適の生涯を送ったと伝えられる。
 鈴木新田の開発は、海岸出洲の干拓による新田として、江戸期の新田開発上注目すべきケースであり、新田開発事業の全体からみて、規模はさほど大きくないが、多摩川のデルタを利用したという点で、特筆すべき事柄と言える
 鈴木新田跡は現在の海老取川の東側、羽田空港1・2丁目一帯。
          
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