奥絵師狩野家墓所

■所在地 :大田区池上1−1−35  2−10  2−11−15
■交  通 :東急池上線 池上駅より徒歩15分  都営浅草線 西馬込駅より徒歩13分
        JR京浜東北線 大森駅西口より東急バス池上方面行で15分 本門寺前バス停下車、徒歩15分




 〈東京都指定 史跡〉  平成25年3月25日指定
                
    奥絵師狩野家墓所
 奥絵師狩野家墓所は、御用絵師として江戸幕府の画業を掌握した狩野四家(中橋狩野家、鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、浜町狩野家)の墓所です。指定面積は297,47平方メートルで宝塔の東と南西側、五重塔周辺といった、池上本門寺墓所において重要な場所に形成されています。最も古い紀年は狩野孝信供養等に刻まれた元和五年(1619)ですが、没年や墓標の形式からみて、埋葬が始まったのは寛永年間(1624〜1644)以降と考えられます。
 宗家である中橋狩野家は、宝塔南東側に墓域を定め、墓標は主に笠付角柱形を採用しています。狩野探幽を祖とする鍛冶橋狩野家は探幽が宝塔南西に埋葬されて以降、宝塔北東一帯を墓域としていたようですが、明治初年の改修で二基に合葬されました。墓標型式は笠付碑形です。なお探幽墓の左隣にある瓢箪形の墓標は、分骨墓で目黒区永隆寺にあったものを昭和十一年(1936)に改葬したものです。
 木挽町狩野家は二代常信、三代周信、九代養信が、紀州徳川家専用墓所の入口付近(現在の五重塔周辺)に埋葬、四代古信以降は主に宝塔南西を埋地としています。墓標は圭頭方柱で、側面に「木」
字が陰刻されています。また木挽町狩野家から分家を許された浜町狩野家は、初代岑信が探幽墓正面左前に埋葬された後、その南側を暮域としています。その後文化年間(1804〜1818)以降は宝塔東側に暮域が展開しています。
 当主の墓標は家系ごとに規格性があり、法印や法眼に叙せられた当主墓は台座に亀趺を有することが一般的です。
 なお狩野探幽墓は東京都指定旧跡でしたが、旧跡を解除し、奥絵師狩野家墓所に含めて史跡に指定されました。
 
           ※出典〔東京都教育委員会設置の標識板より〕
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