新井宿義民六人衆 墓

■所在地 :大田区山王3−22−16 善慶寺
■交  通 :JR京浜東北線 大森駅西口より徒歩10分


 〈東京都指定 旧跡〉  昭和6年12月2日指定
    新井宿義民六人衆 墓

 江戸時代の荏原群新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで、旗本木原氏の知行地であった。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮ははなはだしく、過酷な年貢収奪に絶えかねた農民は、十九ヵ条の訴状(東京都指定有形文化財「新井宿村名主惣百姓等訴状写し」を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓六人は、将軍家綱に起訴しようとしたが、決行直前の延宝五年(1677)正月二日密告により捕らえられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現在の千代田区内神田二丁目二〜四番)で処刑されたといわれている。
 新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝八年(1679)義民と縁故筋にあたる間宮籐八郎が両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取り付けられ、その間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。近年の寺域整備により改葬され、その際出土した甕棺と義民六人衆の遺骸引取りの際に使役した馬の飼葉桶は境内に展示公開されている。

           ※出典〔東京都教育委員会設置の標識板より〕
          
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